20世紀を生き抜くための「心」・「技」・「体」その43

「語録」追録その3
「体」玄米食について
「心」石川英輔「大江戸エネルギー事情」(1993.7.15第1刷:講談社文庫。当初単行本は1990.3初版)より

「語録」追録その3

★「気配り、目配り、先回り。語呂合わせのようですが、営業活動の基本です」

★「出さずにすむなら一銭も」
  *今年テレビ東京系列で放映された税理士を主役にした連続ドラマ
   「貯まる女」(森久美子主演)の税理士事務所に張り出してあった
   標語。ドラマは1回しか見ませんでしたが、クライアントの気持ち
   をうまく代弁している標語だと思います。

★「そろそろ2時10分だぞ。じゃあ始めようか。東京はこっちの方角だ
 ったな。では、黙祷はじめ」
  *6月8日、自由民主党と内閣による小渕前首相の合同葬が行われ
   た。その日、税務調査を中断したときに言われた言葉。内閣葬と
   なったことにより国税調査官(大蔵事務官)は仕事を中断して黙祷
   タイムを持つことになった。


「この星を支配している二つの巨大宗教があります。一つは『経済』も
 う一つは『科学』です」
  *ネットワーク「地球村」の高木善之氏のことば。経済は上がらな
   いといけない。物が豊かでないと幸せにはなれない。発明、発見
   など科学が人類に幸福をもたらす。そう思いこんでいる。でも本
   当にそうしないと幸せではないのだろうか。

「体」玄米食について

★a.7月8日(土)に電気炊飯釜を買い、玄米食を食べ始めた。玄米食が体によいことは知識として知っていたが、なかなか実行できなかった。家にあった炊飯器は玄米も炊けたが、保温機能が付いていて家族が白米を食べているのでこちらの自由にはならない。そこで玄米食の実践にあたってはまず専用の炊飯器を購入することから始めた。ちなみに店には玄米が炊けない炊飯器の方が多かった。

★b.次に米屋に寄り、玄米を3キロ購入した。玄米食を中止したときに備えて少なめとしたが、ご主人から食べてみておいしくないようならいつでも精米してあげるよ、と声をかけていただいた(やめる人も多いということらしい)。

★c.電気釜の取扱説明書によれば、玄米の保温はにおい、変色の原因となるので不可。白米に比べ水は多め、炊飯時間は倍以上かかる。

★d.玄米は「完全栄養食」(一倉定著「正食と人体」p199YTAメモ28参照)である。これにごま塩を振ることによってより、完全食に近づくと言われたことがあるので、炊きあがった玄米にごま塩をふり、おにぎりにした。このやり方が結果論であるが玄米を食べるときのベストだと私は思う。

★e.玄米は消化が悪いからよく噛まないといけない、ボソボソしていて食べにくい、と言うのが食べる前から仕入れていた予備知識であった。食べてみてわかったことは、よく噛んで食べることができる数少ない食品である、ということである。よく噛んで唾液をたくさん出すことによって食品に含まれる発ガン物質等を無毒化できる(YTAメモ11)そうだが、そこまで噛めない食品が非常に多い(その前になくなってしまう)。玄米はボソボソしているからよく噛んで唾液と混ぜ合わせないとうまく飲み込めない。結果としてよく噛むことになり、唾液とよく混ぜ合わされるから消化が悪いなどと心配する必要はない。「消化が悪い」から出発するのではなく「ボソボソしている」から話を進めないと玄米食を理解できない。

★f.一倉定著「正食と人体」p199によれば、玄米のうまさは噛めば噛むほど深まる。玄米は、副食とは別に食べる。最低50回は噛まないと本当の味はわからない。100回噛むとドロドロになり旨味は本物になる。それ以上噛むと、ドロドロはサラサラになって200回では水のようになる。それでいながら滋味はかえって深まる。そのため玄米食ではどうしても40分程かかる。これが玉にキズである。

★g.私流にfの解説をするとこうなる。玄米食というのは、口の中で玄米ご飯と唾液を混ぜ合わせて玄米スープにして食べるもの、と考えるとわかりやすい。最初玄米のなかのでんぷん質が唾液と混ぜ合わさり、ドロドロの麦芽糖状態となる。炭水化物のうま味(甘み)スープをここで味わう。このとき、塩味が少し効くと味がよりあざやかになる。さらに噛んでいるうちにドロドロの玄米スープはのどを通り、口の中には糠が残る。そして糠のなかに含まれるたんぱく質やミネラルなどのうま味が唾液に溶けだし、サラサラになりながら「滋味」が口の中にひろがる。

★h.口の中の糠は最後には味がなくなってカス状態となって残る。これは食物センイのかたまりだと思って飲み込んでしまう。玄米の糠や胚芽は歯にひっつきやすいのか噛んでいても最後まで残ることが多い。なお、玄米には籾ガラつきがどうしても混じる。玄米を洗う段階で必ず見つかる。これはそういうものだとあきらめた方がいい。

★i.私は1回に2合の玄米を炊いて、おにぎり3個にしている。腹持ちがいいので1個を1食分にしている(人間の体は何回も噛む間に空腹感が満たされるようになっているらしい。噛まずに飲み込むようにして食べると過食になりやすいという)。仕出し弁当「寿屋」の佐野甫さんから、割子弁当はご飯を冷ましてからふたをしないと弁当が腐りやすいといわれたことを思い出したので、おにぎりも冷ましてからラップに包むようにしている。

★j.玄米はよく噛んで味わうので食べ終わるのに時間がかかる。副食は玄米ほど噛まなくても食べられるのに玄米はよく噛まないと喉を通らない。ほかに料理が並べられていても、玄米をほおばれば50回以上口を動かしているだけだから両手が手持ち無沙汰。料理に箸もつけられない。それなら副食だけ先に食べてしまい、玄米を後でじっくり味わった方が合理的である。さらに一歩進めて行儀は悪いが、おにぎり片手に‘ながら食事’をすることもできる。例えば、パソコンをいじりながら、新聞やテレビを見ながら、仕事をしながら、車を運転しながら・・・・といったことが可能である。何しろ一口ほおばったら、しばらくの間両手が自由に使える。そう考えると食事時間も惜しんで仕事をする人には最適の食べ物である。

★k.おにぎりは、ごま塩をふって混ぜ合わせ、手にアラ塩をつけて直接握る。その方がおいしいおにぎりになる。塩の摂りすぎではないか、と思われるかもしれないがアラ塩(自然塩)は自然治癒力の働きで摂りすぎても排泄されるから心配いらない。ただし、日本専売公社の純度の高い塩化ナトリウムは体内で溶けきれず蓄積されるから食品としては不向きである(YTAメモ27「体」参照)。

「心」石川英輔「大江戸エネルギー事情」(1993.7.15第1刷:講談社文庫。当初単行本は1990.3初版)より 

★ⅰ.「本」より(p157-163)

a.日本人は本好きである。江戸時代、日本中で出版された本の数は、民間書店と各藩の出版物を合計すると、6万~7万点にも達するという調査がある(一年当り、ほぼ250点)。

★b.では、出版社が何軒ぐらいあったかというと、19世紀はじめの文化年間における江戸の書物問屋(本業は版元)の仲間(組合)は、80軒前後、仲間に入っていないアウトサイダーもほぼ同じぐらいいたというから、この時代の江戸には150軒以上もの出版社があったことになる。また出版文化の中心だった京都では、組合のメンバーだけで200軒近くもあった。では、江戸とともに当時の世界の三大都市だったロンドンとパリではどうだったかというと、1810年頃のロンドンには約200社、パリには約140社の印刷業者(=出版社)があった。当時、フランスもイギリスも世界中に植民地があり、フランス語は一種の国際語として英語は商業語として植民地以外でも広く使われており、フランス語や英語の本が売れたのは、当り前だった。

★c.しかし、市場が限られた日本で、なぜこれほど出版が盛んだったのか。その理由は簡単で、要するに字の読める人が大勢いたからだ。江戸時代には義務教育の制度もなかったのに、子供が7、8歳から11、2歳ぐらいの間に手習師匠(江戸では寺子屋とはいわなかった)に通うのが普通だった。幕末期の江戸府内での就学率は80%に達していたというから、かなの読み書きぐらいは、できる方が普通だった。また、江戸では女子教育が盛んだった。女の子には女性の師匠が教える場合が多く、男師匠100人に対して女師匠が55人の割合だった。18世紀末のフランスの結婚証書を調査したところ、自分でサインできたのが男47.1%、女35.8%だったそうだ。また、20世紀はじめのモスクワの就学率はたったの25%程度だったというから、当時の日本の識字率の高さがわかる。

★d.これはけっして幕府の政策のせいではない。徳川幕府は、現代の民主政府と違って役人の数が極端に少ないため、民間まかせですむことには知らん顔だった。何しろ、江戸の町奉行所の人員は、行政や裁判から警察業務の担当者まで含めて、たった290人しかいなかった。これで、武士以外の50万市民を相手にしたのだから、勤労者人口の7人に1人が公務員や準公務員だという現代民主政府のような小うるさい干渉などできるはずもない。また、教員免許も初等教育についての制度や法律もなく、庶民のための初等教育予算はゼロ。手習師匠は、実質的には自由放任で自由競争だった。

★e.国民の側も《クニ》がもっと教育に金を使うべきだなどと夢にも思わなかった。昔の人は、自分たちの教育は、自分たちの手で行うものとしか考えていなかった。クニがよけいなことをしなくても、あるいはしなかったから、学校マニアの日本には文字の読める人が大勢いた。しかも今よりはるかに娯楽が少なかったのだから、面白い読みものに対する需要が多いのは当然だった。江戸時代に出版文化が栄えなければむしろ不思議なぐらいの条件が揃っていた。

★f.当時の本はかなり高価だった。そこで、本の流通の主力となったのが貸本屋だった。江戸の貸本屋は1人が平均170~180軒のとくい先があり、江戸だけで貸本を借りる家は10万軒もあったというから、読者の数は少なくとも発行部数の何十倍かはあった。正式に刊行された本のほかに、本を借りて筆写し写本を作ることも広く行われ、筆耕つまり本を写す仕事を専門にする人もいた。刊行すると発禁になりそうな本は取締りの盲点になっていた写本として貸本屋の手で読者のもとに届けられるのが普通だった。幕府がいくら目を光らせても、政治を諷刺する本は、堂々と流通していたのである。

★g.1冊の本を大勢の人が読めばボロボロになってしまいそうなものだが、和紙は非常に丈夫でその程度のことではびくともしない。また、本を読むときにはページの右下の部分をつまんでめくるという暗黙のルールがあったらしく、江戸時代の本はどれを見ても汚れている部分が同じである。

★ⅱ.「花」より(p233-240)

h.江戸は森の都だった。市中面積の85%をしめる武家地と寺社地には立派な庭があるのが普通で、かりに面積の2分の1が庭だとしても、緑地面積は江戸の40%以上にもなる。また、当時の世界では例のないほど園芸が盛んな都市だった。大量の植木や花の栽培が行われ特権階級専用だけでなく、あらゆる階層の人々が楽しんでいた。

★i.万延元年(1860)に江戸を訪れたイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンが、染井の植木村へ行った時の記録によれば「染井村全体が多くの苗樹園で網羅され、それらを連絡する一直線の道が1マイル以上も続いている。私は世界のどこへ行っても、こんなに大規模に売物の植物を栽培しているのを見たことがない。植木屋はそれぞれ、3、4エーカーの地域を占め、鉢植えや露地植えのいずれも、数千の植物がよく管理されている……道の両側には、温室を必要としない、日本の鑑賞用の樹々や濯木類、盆栽仕立やテーブル型に刈り込まれた植物が数多く栽培されている。……日本の植木屋には、寒気に弱い植物を保護するための温室はまだできていなかった。その代り棚のある小屋を用意するのが常で、寒い冬の間、弱い植 物を保護するために、みんな一緒くたに詰め込んでいる。そこでサボテンやアロエのような南米の植物を注目した。それらはまだシナでは知られていないのに、日本へは来ていたのである」(江戸と北京・三宅馨訳・広川書店)とある。染井は、サクラの花の代表のように思われているソメイヨシノの発祥地、現在の東京都豊島区内である。江戸時代は世界に類のないほど広く美しい園芸植物専門の村、いわば《園芸団地》だった。フォーチュンが見たのは植物村の3分の1程度だったらしく、染井から巣鴨にかけては、さらに広い範囲にわたって植木や花の栽培地が広がっていた。染井村の入ロ付近だけでも、世界中を廻って来た専門家が驚くほどの栽培面積があったのだから、江戸での植物の需要がどれほど膨大だったかが想像できる。

★j.江戸時代の庶民が実際にどんな生活をしていたかを具体的に調べると、あきれるぐらいのんびりと暮していた様子がわかって驚くことが多い。そののんびりぶりは、工業化されたせち辛い世の中に生きるわれわれには想像もできないほどで、先祖たちは、金のもうからないことは無駄だと考える現代の生活とまったく異質な感覚で生きていたと考えざるを得ない。江戸人たちが高く評価したのは、効率の良い技術よりむしろ実用性から離れた遊びの世界で、この傾向は、文化文政時代(1804~30)に頂点に達した。世界史上でもまれに見る長い平和な期間と、産業革命以前の余暇に恵まれた世の中が続いた幕末期には、その後ついに生まれることのなかった日本独自の文化が続々と花開いたのである。

★k.園芸の大流行もその一つで、百万都市の人口の半分を占める庶民大衆の間に草花を中心とした園芸が大流行した。フォーチュンは、「もしも花を愛する国民性が、人間の文化生活の高さを証明するものとすれば、日本の低い層の人々は、イギリスの同じ階級の人達に比べると、ずっと優って見える」と書いているが、江戸の植木屋が大規模な植物産業といえるほどにまで成長したのは、庶民の影響も大きかった。町人の居住地は全面積のたった15%しかなく、そこに人口の半分が住んでいたのだから、人口密度が過密だった。したがって、下町の庶民たちの園芸ブームの中心は、地面を必要としない鉢植えの草花や盆栽、万年青などで、江戸時代ならではのマニアも大勢いた。珍しい色や形の菊や朝顔や万年青などの品種を作り出して、仲間うちで競い合ったり、売買して儲けたりした。さらに熱中の度合いが高くなると、記録を集めて立派な原色図鑑まで出版した。もともと、庶民の間で生まれて庶民の間で育った江戸文化は、上流社会とは縁がない。歌舞伎も錦絵も 皇室や将軍家とは無関係に発達したのであり、保護されるどころか、支配階級の道徳感覚に反して「いかがわしい」とみなされる部分が多かったために、むしろ、いつも弾圧や監視の対象になっていた。

★ⅲ.「遊山」より(p245-256)

l.先年ロンドンで開催された『大江戸展』が、会期を延長するほどの人気だったので、日本側の委員が、今度は『大東京展』を開こうかと提案したところ、イギリス側が取り合ってもくれなかったという新聞記事を読んだことがある。独創性がまるでなく、目先の便利さしか考えていない今の日本の文化に関心はないということらしい。経済大国の首都東京より、貧しい超過密都市だった江戸の方が文化的には高く評価されている。金さえあれば尊敬されるわけでもないのだ。貧しいとか超過密だとかいっても、それはあくまで現代人の立場からー方的にいっているだけのことで、当の江戸人の意見ではない。江戸時代の生活をこまかく調べていると、江戸文化を生み出した江戸の庶民たちには、経済統計や人口統計などの数字を見ただけでは読み取れないゆとりがあることに気づく。そして、そののどかさには、さまざまな実質的裏づけのあったこともわかって来る。

★m.ロバート・フォーチュンは、江戸と近郊の概括的観察のまとめとして、次のように書いている。「江戸は東洋における大都市で、城は深い堀、緑の堤防、諸侯の邸宅、広い街路などに囲まれている。美しい湾はいつもある程度の興味で眺められる。城に近い丘から展望した風景は、ヨーロッパや諸外国のどの都市と比較しても、優るとも劣りはしないだろう。それらの谷間や樹木の茂る丘、亭々とした木々で縁取られた静かな道や常緑樹の生垣などの美しさは、世界のどこの都市も及ばないであろう」

★n.江戸の人々もこの美しい景観に無関心だったわけではない。それどころか、日帰りで行ける近郊へのピクニック、いわゆる《遊山》は、もっとも人気のあったレクリエーションで、江戸近郊の観光案内や、季節ごとのパンフレットのたぐいが数多く出版された。京都や大坂など、上方の上流階級の人々によって長い時間をかけて洗練されて来た日本独特の自然との接し方が、金はなくてもひまだけはたっぷりあった江戸の町人によって、下層の庶民の間にまで拡げられたのである。

★o.江戸に住む大勢の幕臣つまり徳川家の家臣も、日帰り遊山に貢献していた。幕臣は、将軍家を護衛するのが最大の義務というタテマエだから、公務以外では特別な許可なしには外泊ができない。原則として、夜中までには自宅に帰っていなくてはならない立場なのである。しかも、江戸時代中期以後になると、武士は町人よりはるかに貧乏になっていて、金のかかる娯楽とは縁がうすくなった。しかも、公務員の常として町人よりさらにひまで、遊山文化の担い手としては適役だったらしい。

★p.どこへ行くにも歩くほかなかった江戸時代の遊山は、弁当と水筒さえ持てばたとえ一文もなくても一日遊んで来られた。美しい景色は、貧乏人が見ても金持ちが見ても同じだから、これぐらい安上がりで平等で楽しい娯楽はほかになかった。天保8年(1837)に刊行された『江戸名所花暦』という代表的な観光案内書がある。四季おりおりの花の名所は、遊山の目的地として人気が高かった。桜、梅、梨、山吹、すみれ、桜草、藤、牡丹、かきつばた、つつじ、さつき、卯の花、ねむ、蓮、朝顔、萩、菊と、到る所にさまざまな花の名所があった。花の名所以外にも、いかにも江戸らしい遊山の名所は多かった。紅葉の名所、うぐいすの名所、ホトトギスの初音、虫の声の名所、蛍の名所等々。植物や動物と親しむ名所ぐらいなら、現在のわれわれでも特定の場所に出向いて楽しんでいるが、月見の名所、はては雪見の名所となると、ご先祖の方が楽しみの範囲が広いという気がする。中でも、もっともユニークなのは《枯野》ではなかろうか枯野とは冬枯れの野原のこと。『花暦』の中では、隅田川の岸辺と雑司谷から西の郊外を推奨している。枯れはてた田畑や原野などをわざわざ眺めに行くやつの気が知れないと思う人も多いかもしれない。しかし、江戸時代といわず、高度成長期の前までの武蔵野の冬枯れの風情は、確かにわざわざ見物に行く価値があるほど美しかった。

★q.『花暦』の名所を、現在の東京の地図と重ね合わせて見ると、大部分が23区内どころか、都心部の10区の中に入る。日本橋から1時間も歩いて行けば、蛍が飛び交う清流や《庭園のように美しい》自然があった。この程度の、まさに手の届く範囲内に 武蔵野の大自然が生きていたのだから、たとえ日常は狭苦しい裏長屋に住んでいたところで、のびのびした気持ちで暮せて当然だったのではあるまいか。また、たとえ物質的には恵まれていなくても、ほとんど経費をかけず無理もせずに目一杯楽しめる方法を考えた先祖は、偉かったと思う。

★ⅳ.「流す」より(p257-265)
r.日本の下水道の普及率は先進国の中でも特に低い。日本全体の普及率が、昭和63年(1988)3月末で、39%。東京でさえやっと82%というのが実情である。国全体の普及率が、イギリス95%、西ドイツ91%、アメリカ73%、低い方のフランスでも64%、イタリー55%というから、わが国の普及率は確かに低い。しかし、下水道さえ完備すれば、それで汚水処理の問題がすべて解決するとは思ってはならない。自分の出したものが、どこか見えない所へ行ってしまったからといって、消えてなくなるものではない。なまじ見えなくなるために、現代人の無責任さがますます助長されるのことの方が恐ろしい。

★s.まして、古い時代に下水道の普及率が一般的な文明の程度を示す尺度になっていたかどうかという点になると、大いに疑問である。パリの大環状下水道が完成したのは何と1740年(元文5年)。1822年(文政5年)には、パリの下水道の総延長が37キロになっていたというような話を聞かされると、フランスは何と素晴らしい文明国なのだろうかと、感動する人が多い。しかし、下水道を作って流してしまえばことがすむわけではない。当時は、汚水を処理する技術がまだ知られていなかったため、パリの立派な大下水道に流していた汚水は、そのままセーヌ川に放流していたのだ。それこそ《水に流す》ほかに処分の方法がなかったから止むを得なかったのだが、どうひいき目に見ても、これがすぐれた処分法とはいえない。当時のパリには、まだちゃんとした上水道がなかったから、人間の排泄物を含んだ生の下水がどんどん放流されるすぐそばで、セーヌの水を汲み上げて飲料水にしていた。どうやら、西洋人と日本人では、清潔、不潔の感覚にかなり違った面があるようで、14世紀から18世紀頃にかけてのロンドン・パリをはじめとするヨーロッパの都市では、排泄物を窓から道へ捨てるのがごく普通の処理法だったという。地震がないため、早くから石造りで3、4階か、それ以上の建物ができていたのに、上の階には便所が作れないため、住人は屋外の共同便所を使っていた。しかし、夜中に上の階から降りて来るのは面倒なので、便器で用をすませて中身は共同便所へ捨てに行くのがきまりだった。ところが、実際は、日が暮れてから窓の外へ捨てる人が多かったというから驚くほかない。もちろん、そのまま放置しておけないから、専門の人夫がせっせと掃除したそうだが、都市の中はいうまでもなく非常にくさかった。

★t.徹底した欧米崇拝教育のため、江戸時代の日本は、鎖国のせいで世界中でただ一国だけ異常に遅れた国で、日本を一歩出ると、そこには現代社会と同じように進んだ社会があったように思っている人が多い。だが、下水の問題を見ても、仰ぎ見て感動しなくてはならないほど立派なことをしていたとは、とても思えない。アメリカの動物学者モース博士は、「わが国(アメリカ)で悪い排水や不完全な便所その他に起因するとされている病気の種類は、日本にはないか、あっても非常に稀であるらしい。これは、すべての排出物質が都市から人の手によって運び出され、かれらの農園や水田に肥料として利用されることに原因するのかもしれない。わが国では、この下水が自由に入江や湾に流れ入り、水を不潔にし水生物を殺す。そして腐敗と汚物から生ずる鼻持ちならぬ臭気は公衆の鼻を襲いすべての人を酷い目にあわす。日本ではこれを大切に保存し、そして土壌を富ます役に立てる」(日本その日その日・石川欣一訳)つまり、下水処理法の確立していなかった時代の水洗便所や放流式の下水道は、環境汚染の元凶以外の何ものでもなく結構ずくめのことではなかったのである。排泄物を家の中に留めておくのは、確かに不潔だが、川や海に放流するのはもっとたちが悪く、汚いものを見えない所へ追いやっただけでは、問題は何ら解決しない。汚染物質は汚染源の中の施設に留めて拡散させず、環境の中に放出しないようにするのが公害防止の基本とすれば、江戸時代の人は基本に忠実だったことになる。

★u.衛生の面だけではなく、屎尿は優れた肥料でもあったから、これを捨ててしまうのは二重の損失だった。汲み取り用の肥たご1荷分の下肥の中には、窒素分が300g、燐とカリ分が200gぐらい含まれている。大ざっぱに言って、硫安、熔成燐肥などの化学肥料にして五キログラム程度の肥料分に相当する。昔は、集められる屎尿の量を、一人当り年間平均10荷つまり20桶分と見積もっていたので、ざっと50kgぐらいであるこれだけの有機肥料を川から海にたれ流すのと、ていねいに集めて田畑つまり大地に還元するのと、どちらが優れた方法だったかは、議論するまでもないだろう。

★v.ハンブルグ、ウィーン、ミュンヘン、ケルン、バーゼル、チューリヒ、ジュネーブなどの都市で、活性汚泥法による下水の本格的な終末処理を始めたのは、いずれも第二次世界大戦後だというから、ヨーロッパでは、ほんの50年ほど前までは、下水のちゃんとした終末処理施設なし、つまり、ほとんどたれ流しの下水道建設を進めていたのである。良い悪いは別にして、処理施設を建設してから下水道を作って来た日本とは、かなり発想が違うことだけは確かだ。

★w.100万人内至120万人いたという大江戸住民たちは、化学肥料に換算して年間ざっと5万トンもの肥料を生産していた計算になるが、この肥料は、けっして農家にお願いして「持って行って貰った」のではなく、ちゃんと金を取って売り渡していた。汲み取る場所の権利まで決まっていたし、大名家の中には、入札でその年の権利者を決める家もあった。長屋は共同便所なので、大家に所有権があり、幕末期には1年間大人10人分で2分か3分(1両=4分)だったというから、大人の店子が20人いれば、1両か1両2分というかなりの収入になった。個人住宅の場合は、物納つまり一定量の野菜で受け取る方が普通で、曲亭馬琴は成人1人について、年間大根50本、ナス50個を受け取っていたと日記に書き残している。さらに、下肥の問屋、いわば肥料専門の商社まであった。食料と肥料が産地の土と消費者の間を循環するこのシステムが長年の経験で充分合理化されていたことがわかる。もちろん、口へ入れる野菜を育てるのに排泄物をかけることに問題がないわけではない。我々の子供の頃は、回虫などの寄生虫の検査を時々しては、駆虫剤を飲まされたものだった。しかし、大量の農薬をふりかけられている今の野菜と比べて、はたしてどちらが安全なのだろうか。下肥を使い飴めたのが16世紀とすれば、日本人は以後400年間も生きて来た。だが、今のような農薬の使い方をして、はたして今後400年間も健康に生きられる保証があるのだろうか。 ⅴ.「生きる」より(p288.289-290)

★x.明治維新以後の日本人は、欧米をお手本とし、必死になって後を追いかけて来た。今でさえ、欧米の豊かさこそ本物なのだといってあこがれる人が多い。しかし、はたして本当にそうなのだろうか。欧米の豊かさは、かつての奴隷制度や広大な植民地を抜きにしては考えられない。弱い武力しか持たなかった民族を大砲や銃によって服従させることによって得た富の上に成り立つ文明が、本当にそれほど立派なお手本になり得るのだろうか。自然環境に対しても、ヨーロッパ人は江戸時代までの日本人とは反対に、かなり敵対的で破壊的な態度を取り続けて来た。ところが、明治以後の日本人は、そんな部分までを立派なヒューマニズムやデモクラシーの一部だと勘違いして、せっせと取り込んでしまった。

★y.私たちは、現在の豊かな世の中がいつまでも続いてほしいと願いながらも、こんなやり方ではいずれ行き詰まるのではないかと恐れている。もし行き詰まる日が来るとすれは、それは欧米式合理主義が行き場を失った時だろう。その時にまだ間に合えば、江戸時代の日本人の生き方こそ立派なお手本になるはずだ。

★z.国内で自給自足していた江戸時代の日本など、国際化の避けられない現在の世界でお手本にしようがないという意見もある。だが、よその惑星へでも移民しない限り、人類はこの地球上で自給自足するほかないことを忘れてはならない。そのためには、基本的に江戸時代の日本人が日本列島の中でやっていたような生き方、つまり貯金の範囲内で生きるという生活態度を地球規模に拡大するほかないのではあるまいか。

★あとがき

 メモ41で日下公人氏の「21世紀、世界は日本化する」を紹介しましたが、そのときに参考になりそうなのが江戸文化でした。その江戸文化をわかりやすく紹介していたのが石川氏の「大江戸」シリーズでした。ちょっと紹介が長くなってしまいましたが、21世紀は江戸文化が参考になっていくのではないかと思います。美しい景色ほど安上がりで平等で楽しい娯楽はない、地球規模で考えたら自給自足していくしかない、等々あらためて考えさせてもらえる本でした。