20世紀を生き抜くための「心」・「技」・「体」その41

「技」日下公人著「21世紀、世界は日本化する」(2000.3.6第1版:PHP研究所1,500 円+税)より

「技」日下公人著「21世紀、世界は日本化する」(2000.3.6第1版:PHP研究所1,500円+税)より

★a.20世紀で一番大きな事件は有色人種である日本が100年かかって人種平等を実現し、それまで200年続いた「白人絶対の時代」を終わらせたことである(p92.94)。

★b.1919年、国際連盟を設立するとき日本は「人種平等宣言」を提案する。国際連盟の規約に「あらゆる人種は平等である。人は人種によって差別されない」という一項を入れることを提案した。公式の国際社会の総意としての「人種平等宣言」は初めての主張である(フランス革命などで「人権宣言」は行われているがこれは国民としての人権であって白色人種と有色人種が平等などというものではない)。日本外交団の努力により評決で多数の支持を得たが、委員長だったアメリカのウィルソン大統領が「ことの重大性に鑑み、全員一致でなければだめだ」と否決してしまった(p94.105)。当時のアメリカは黒人と白人を完全に分けており、人種平等などとても受け入れられる状態ではなかった。たとえば1917年にワシントンはセパレート・シティにしており、バス、学校、公共施設のトイレなどの利用を黒人用と白人用に分けている。その後、だんだん黒人の地位が向上して「公民権法」が1957年に成立、「人種差別撤廃法」が1964年に可決される。日本の提案を否決してから実に40年も遅れて、ようやくアメリカ国内でも人種平等法ができたのである(p105-106)。

★c.植民地支配の下では原住民に文字を教えず、農耕用鉄製品が反乱の武器に転用されないよう所有を制限し、白人絶対の教育を徹底して平等意識の芽を摘んでいた。使用人に何かを与えるときにも手渡すことはなく、床に投げ捨ててそれを拾わせた。人を奴隷にする制度を国家として持ったことがない日本人はこれを見て発奮した。洗脳され、独立の精神を失う恐ろしさを実感し、そうした恥辱を避けるためにも自らの軍隊を保有した。白人絶対の時代であったが、軍事的実力だけは素直に認めたので日本人はそこに活路を見いだし、軍事大国、その裏付けとなる産業の育成に取り組んだ(p96-98.p95)。

★d.それができたのは、19世紀日本が開国しヨーロッパとアメリカを見学した岩倉具視使節団が「なんだ、たった50年の差じゃないか」と考えたことである。大砲と軍艦と蒸気機関と侵略の思想はなかったが、それ以外のものは既にみんなあった。50年前はイギリスもドイツもフランスもアメリカも日本よりも野蛮国だった(だから追いつけると考えた)。江戸の人口は100万人。その頃の欧米で100万都市はロンドンしかなかった(p112-113.p115)。江戸時代は暗黒だったという歴史観は明治政府が自らを正当化するために殊更に暗黒を強調したり、マルクス史観による封建時代のイメージに当てはめて暗く見ているが、実際はそうでもなかったらしい(p224)。全人口の8割を占める農民から年貢米として収穫の半分を取り上げても残りの2割では食べきれない。半分取り上げるというのはタテマエで「いつでもタテマエどおりにするぞ」という威嚇と「お目こぼし」をしてお上の有難味を感じさせる行政テクニックの「タテマエ」であったという指摘(堺屋太一:メモ6)もある。また、幕府は大名の力を削ぐために治水工事などの公共事業を押しつけたから、それを免れるために「我が藩は貧乏です」とか「飢饉です」と実際よりも悲惨に前宣伝をしたらしい(そういう報告も文書として残っていると悲惨な時代の公式記録となってしまう。p225)。江戸時代250年間は、町人がどんどん金持ちになり、武士がどんどん貧乏になって、町人消費文化が栄えた時代である。これが農民にまで広がり、農民消費文化もなかなかのものだった。だから農村にまで寺子屋教育が普及し、農民の子でも字は読むし、芸術はわかるし、計算はできるし、土木建築はもちろんそのための測量もした。だから伊能忠敬が測量に行くと、みんなが歓迎して手伝って日本地図ができあがった。また、測量隊が夜寝ている間に金目のものを盗んでしまえなどということが起きなかったのは、国民の多数が地図の価値を理解する知性があったからである。他の国になぜ地図がないかといえば、その知性が欠けていたからだと思う(p129-130)。昔の5反百姓は貧農といわれながら年末がきて、正月があけたら、やる仕事がなかった。1月、2月、3月は正月休みでウサギ狩りをしたり、俳句をつくって神社に奉納してたりしていた(それだけの余裕があった:福島正信「わら一本の革命」p141-142)。

★e.日本は明治の初め大学をつくる時、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカから相場の数倍の給料を払って外国人教授を招待し、それぞれの一番いいところを学んで日本という国をつくった。あまりにコスト高なので学生は死にもの狂いで英語もフランス語も勉強し、一生懸命吸収して早く帰した。そうやって一番いいところを取って、今の日本をつくった。大切なのは独立の精神である。「世界中全部の国はお互いに対等なのだから、そこから一番いいところを取るのだ」という精神と、文明・文化相対論のない国は、いつまでたっても世界から真似される国にはなれない(p146-147)。

★f.日本人は今までずっとイギリスやアメリカの真似をして、常に世界には自分たちが真似すべき「先進国」があると思ってきた。しかし、それは間違いである。先進国が先に存在するのではない。後進国が真似するから相手国が先進国になるのである。日本が真似するから、イギリスやアメリカは「先進国」になったのであって、日本が真似をしなければ、イギリスやアメリカは先進国にはなっていない。もしもこれから日本がアメリカの真似をして、弁護士だらけの国になったら、アメリカは先進国である。しかし、日本が弁護士だらけを選ばず、お互いが誠意をもって話し合うことで発展する国をつくったら、アメリカは先進国とは言えない。さらにその後、他の国が弁護士だらけではなく、誠意の話し合いですむ日本的社会を選 んだら、先進国は日本でアメリカは邪道に落ちた国になる。日本の経済的成功が続けばそうなる。どちらにせよ、ある国が「先進国」かどうかを決めるのは、実は「後進国」の選択である。あらかじめ先進国がどこか決まっているわけではない。ましてや欧米が先進国と決まっているわけではない(p28-30)。

★g.普及し終わったところであるとき一服して考えると、どっちが先進国だったのか、後進国だったのかと言うことはできるが、それはあくまで一服した時の議論である。普及の相互交流をやっている途中で「日本は遅れている」とか「アメリカは進んでいる」と言うのは、イデオローグが好きな人たちの常套文句にすぎない。先進国、後進国とケジメをつけたがるのは、イデオロギッシュである。結論を先に立て人びとにショックを与えて自分の主張を通そうとしている。この論法で子供の時から教わり続けている人は、そのイデオロギーを変だと思わなくなって、今度は他人に対してそういうものの言い方をするょうになる。学歴の高い人にはその傾向がある。特に欧米に留学して学んできた人は、すっかり染まっている場合が多くて困ったものである(p170)。

★h.先端とは、普及の最初を言う。もしも将来アメリカ中が米と魚を食べるようになれば、食文化では日本が先進国になる。かつては日本人のことを「フィッシュ・イーター」と呼んだが、魚を食べるのは野蛮人だという軽蔑の意味が含まれていた。いまはアメリカも立派に「フィッシュ・イーター」になつた。これは、普及の問題である。魚を食べるのは先進国か、後進国か。そんなことがあらかじめ決まっているわけではない。事後概念にすぎない。それなのに、まるで事前概念のように教えたのが啓蒙主義者や大学教授広めたのがマスコミで、明治、大正、戦前、あるいは戦後も、啓蒙主義に染まったエリートは「日本人はまだ蒙である。蒙を啓かねばいけない。自分はいい模範を知っている。そのいい模範は欧米である」と頑張った。たしかに昔はほとんどの日本人は欧米を見たことがない。だから「そんなものか」と傾聴した。(p173)。

★i.先端かどうかは普及の順番で決まる。「そこには優劣がある」と啓蒙主義者は頑張るが、ではその優劣とは何か。優劣には「本質的優劣」と「派生的優劣」がある。本質的優劣が顕著なのは、軍事力と経済力である。なぜかと言えは、直接対決がある。軍事の場合は一目瞭然。軍事や武器の優秀さは数字にはっきり出る。それから経済も、どちらが上かというのははっきりしている。販売競争、生産競争は、直接対決により価格・納期・品質でハツキリ勝敗が分かれる。軍事と経済は、このようにどちらも目的が明確だから、同じ物差しで優劣を決めることができる。それから本質的優劣には「制度」も含めていいだろう。政治制度とか行政制度、それから経済制度(日本的経営も)。制度もかなり本質的なもので、ぶつけてみれは優劣がわかる。だから戦争に負けた国では、制度がガラッと変わる。勝った方の真似をするのである。それから技術も本質的優劣に入れておいていいだろう(p174-176)。

★j.それに対して派生的な優劣の代表は文化である。情報、教育、通貨、言語、娯楽も派生的である。派生的とは、つまりどちらが優れているとは言いきれない。しかし格好いいと思ったり、あるいは嫌いだと思われたり、あるいは流行、ファッション、気分に左右されて、優劣らしきものが生じる。近代において英米が世界を押さえたのは、まず軍事力と経済力によってであつた。それは本質的な優劣がはっきりするからである。だからその時代はわかりやすい形で先進国が存在する。他の国は真似をするしかない(あるいは征服されるしかない)。それは言ってみれは、人類社会がまだ野蛮だったのである。しかし21世紀はそのような、本質的優劣だけで勝負する時代が終わって、派生的優劣、すなわち文化、情報、娯楽で勝負する時代になる。大切なことは派生的優劣においては後進国が先進国をつくるのである(p176-178)。

★k.プレジンスキーという人が、20数年前「ひよわな花・日本」という本を書いた。そこには「日本は高度成長を遂げて立派な自動車をつくり、テレビをつくり、恐ろしい国のように見えるが、これはひよわな花でしかない。もうすぐ潰れる」という趣旨のことが書いてあった。その本をめくると、最初に日本の強さの原因を15個くらい挙げてある。そしてこの理由を1つ1つ吟味した結果、理由の大部分がまもなく消え、残るのは3つか4つしかないので「日本はおしまいだ」と結論づけてあった。この本は日本でもアメリカでもベストセラーとなった。しかしこの論法には途方もない間違いがある。なぜなら、いま日本が調子いい理由にだけ焦点をあて、これから日本がもっとよくなる新しい理由が生まれることには触れていないからである。繁栄している今の理由だけを見れは、それはいつかは消えていくに決まっている。この論法でいけば、必ずすべてが衰退論になってしまう。この本にかぎらず、この手の論法が実に多い。たとえは「あの家はお父さんが元気で頑張っているね。だけど、あのお父さんもだんだん歳をとるんだよ」と言えば、すべての家は没落することになる。息子が後を継いで、いっそう立派に頑張る可能性に目を向けなければ、すべては没落論になるに決まっている。こういう本が多すぎる(p48ー49)。

★l.マスコミもひたすら暗く書く。暗く書いたほうがトクだからである。まず、暗く書いていれば自分が賢そうに見える。それから楽観論を書いてはずれると叱られるが、悲観論を書いておけばはずれても叱られない。会社の中で考えればわかりやすい。楽観論がはずれるとひどく叱られるが「この仕事は難しい、苦しい、辛い、相手もあることですから……」と、さんざん言い訳しておいたほうが、あとがやりやすい。悲観論を口にするほうが人間は生きやすいのである。さらにはこんな事情もある。何かをホメるのは自分に全責任がかかる。それよりは少し距離をとって批判しておいたほうが逃げ道があって良い。そこで批判的材料を集める。なぜそんなに暗い話ばかりをコレクションするのかと言うと、どうもそれはマスコミの パフォーマンスもあるらしい。気の毒な人の味方、弱者を守るわが新聞、政府の無為無策を攻撃する勇気あるわがテレビというパフォーマンス。報道姿勢としてはそれが一番ラクである。どこからも文句を言ってこないからだ。特に政府は文句を言ってこないから、不況の責任を押しつけるにはもってこいの存在である(p40ー41)。

★m.日本はアメリカの宣伝に惑わされている。特にアメリカヘ留学して帰ってきた人やアメリカで博士号を取った人、国際通と言われてワシントンの動きを気にすることで出世する人は、いつの間にかアメリカに洗脳されて、アメリカの代弁ばかりしているから困ったものである。問題の立て方を根本から間違えている。そんなにアメリカが正しいのなら、さっさと日本を見捨ててアメリカに行けばいいのだが、とてもアメリカで通用する自信はないから日本にいる。そんな人をマスコミが便利だと思って使うから、ますます事態は混迷していく。このような状況だから、日本は独自の「21世紀はこうなるのだ。日本はこうするのだ。あなたたちこそ間違っているのだ」という主張をしなけれはいけない。そして世界もそれを待っているのである(p44)。

★n.明治維新の時はろくに大砲も軍艦も何もなかったような国が100年間でここまできた。途中で1度叩かれ、焼け野原になっても、50年でまたここまで戻ってきた。日本は江戸時代からすごい国だった。他の国が簡単に真似できない底力がある。その歴史と伝統に加え、今は金持ち国であり、勤勉で、ハイテクもある。だから見過ごせない。このままではいつかアメリカを追い越すのではないかと、先方がいちいち恐怖に感じる。そのような気にさせる何かが日本にはある。そして20世紀にこういう実績があるのだから、元気さえ出せば21世紀にも日本はまたすごい実績を残すことができる。日本が元気を出さないように、世界中の白人国があれこれ言うことを真に受けてはいけない。例えば日本人にはノーベル賞受賞者が少ないと言うが、あれはノーベル賞の受賞国が偏っているのである。ノーベル賞をもらえないから日本人は創造力が低いのではなく、ノーベル賞が公正ではないのである(p109-110)。

★o.日本経済がダメだダメだと言われている理由に、いわゆるグローバル・スタンダードがある。同質の市場経済で世界が覆われると、日本はアメリカについていけないと予測する人が多いが、もう少しきちんと分析してほしい。グローバル・スタンダードはそういうものでもあるが、またそうでもないところもある。そもそもグローバル・スタンダードという英語はなく、和製英語であるということからして日本国内での過剰な過熱ぶりがわかるが、最近アメリカで出た本に、「多国籍企業がどんどん進化して、いつか無国籍企業になるのではないかと思われていたが、実はそうはならず、本土の風土や文化を色濃く残していて故郷とまったく無関係な無国籍企業になるなどはありえない。自国文化への里帰り傾向が出ている」と書かれているものがあった(ポール・ドアマス、ウィリアム・ケラー、ルイス・ポリィ、サイモン・ライク著「グローバル経営の神話(The Myth of Global Corporation)」藤田隆一訳:トッパン刊)。その本によると、例えばダイムラー・ベンツは「絶 対にドイツらしさは捨てない」という方針を打ち出しているし、アメリカのフォードやクライスラーも同じだという。ルノーも「やはり我々はフランスなのだ」と言っている。日産と一緒になつて無国籍な会社になろうなどと、ルノーは全然考えていないということである。その本では「たくさんの多国籍企業を調べてまわったが、自分のお国ぶりを捨てようという会社は一つもなかった」と書いている。

★p.しかし一方、無国籍化が進みそうな業種も確かにある。例えば金融・証券。お金は記号として扱えるから無国籍化が進みやすい。その流れは後戻りしない。しかし自動車産業のように、それぞれの国の生活や文化や、働く労働者の心の持ち方や、周りの中小企業との付き合い方などに影響される産業は、そう簡単に無国籍とはいかないのである。つまりお金のような無色透明なものは無国籍化が進み、自動車産業のように生活・文化に密着したものは、逆にだんだんお国ぶりが出てくるようになるのではないだろうか。大衆社会になればなるほど、無国籍化は簡単には進まないだろうと思う。たとえて言えば、日本の自動車をそのままインドネシアに持っていっても売れるとすれは、それはグローバル・スタンダード的と言えるがしかしエリート向け高級車は別として、大衆消費社会になればなるほど、インドネシアで売ろうとする自動車には、日本風に加えてインドネシア風の味付けが求められることだろう。今のグローバル化にはアメリカ発のものもあれば、日本発のものもある。世界中それぞれがいろいろなことを発信していて、結果としてどれが勝つかはまだわからない状況である。アメリカ発が必ず勝つとは思わないし、世界全部が一色になるとも思えない。結論を言えば、世界は3つか4つの棲み分けに落ち着くと思う。そしてその中でさらに細分化が進み、1つ1つの商品にはかえって自国文化への里帰り傾向が出るのである。それが妥当な見方ではないだろうか(p85-87)。

★q.日本人は日本が島国で小国だからダメだとなんとなく思ってしまうが、それは領土面積で比較するからで、海洋国家として考えれば日本は広大な勢力圏を持っている。国際関係をうまくやっていくには国を色分けするとわかりやすい。かつては「東西」とか「南北」という分類が一番わかりやすかったが、ここで提案したいのは「大陸国と島国」という二分法である。というのは、世界を強国と弱国に二分して、それを地図に書いてみると、強国はすべて大陸に存在していることがわかる。弱国はその周辺の島国に散在しているが、どうしてそうなるのか。強国は面積が大きくて人口も多い。そして資源がある。さらには戦争を繰り返してきた歴史や伝統を持っている。大陸ではそういう国ができあがるものらしい。島国に住むと長い間お互いの顔ぶれが変わらない生活になるが、大陸に住むと、遠方から異民族の移住や侵略がたびたびあって、まったく気心が知れない人間同士の交際をしなくてはならない。島国は統一国家を形成するのが簡単だが、大陸では統一を完成しようとすると、それは地平線の果てまで制圧しないとできないし、それができたとしても、すぐに内部から分解が始まる(だから人びとは国家を信用しないし、あてにしない同様に国家も辺地の住民を国民とは思っていない)。島国は海に守られているから、防衛に関心が低い。それに対し、大陸は防衛が第一で特に陸軍が重要である。大陸の国は軍人政府になりやすい。当然外交が発達する。他国の情報に敏感になる。弱肉強食の世界を生き抜くために、策略の限りを尽くすことになる。「勢力均衡政策」や「遠交近攻」が当然の常識になる。そういう伝統とノウハウと人材がたくさんストックになっているところが大陸国の特徴で、これは島国の遠く及ばないところである。それを忘れて中国という国を日本国と同じように理解すると、とんでもないことになる。中国の政党や軍や官僚、それから会社や従業員を日本と同じように考えてはいけない。名称は同じでも、中身はぜんぜん違っている。たいていの日本人は島国的な経済のメガネや島国的な軍事力のメガネをそのまま使って中国を見ているからピントが合わない。やはり大陸を見るには大陸用のメガネを使わないといけないのであって、島国用のメガネで中国を見るから日本の外交は失敗するし、将来見通しは当たらないし、商売はソンを重ねる。親切にしてあげたつもりが、逆に国家関係や人間関係を損ねたりする。それからアメリカもヨーロッパとの関係では島国の立場だから、これまで200年間、ヨーロッパ諸国との交流では話が通じそうで通じないことにいつもイライラしている。日本と中国の交際も同じである。アメリカは島国的体質と大陸的体質の両方を持っていて、アジアに対しては大陸的に振る舞う。中国との交際では、日本を味方につけた時は島国的立場に立つが、日本を無視した時は、アメリカ大陸とユーラシア大陸双方の代表同士という大陸的な発想で交渉する。今日、国際関係を論ずる人は国連統計を使って各国の面積、人口、GNP、一人当たりGNPの比較から話をはじめ、政治の民主化、経済の発展、主要貿易商品の構成へと分析を進めるが、そうした表面的な数字の基礎となっている国情、民情、社会事情を見るにはこの「大陸国か島国か」の違いを欠くことは許されないのである。たとえば、軍事力を大陸国は国家および国民の生活に必要不可欠なものと考えるが、島国はそう考えない。それから防衛力は大陸では陸軍だが、島国では海軍。社会関係では契約の実行を保証する根拠を、大陸国は当事者の実力に求めるが、島国では社会の評判に求める。国内の統一が完成しており、人口が少なく、また移動が少ないので「情報の共有化」や「価値の共有化」が成立しているのである。したがって「言語」はそれほど重要ではない。歴史的に見て大陸の産業は農業か遊牧で、島国の産業は水産業と商業。工業の誕生は商業に先導されるから、工業化は島国のほうが早い。宗教は大陸が一神教で島国は多神教または多神が併立する。したがって社会形成の原理も、大陸は独裁で島国は民主という差になる。相続も一般的にいって、大陸では長子相続で島国では末子相続。大陸は男尊女卑で島国は女尊男卑。島国は「海上航行の自由」に関心が強い。遠距離商業の利益が最大の産業だった歴史が長いからそうなる。国家の税収も「関税」に頼るところが大きい。国内の農林水産業は輸出向けの比重が大きいから、外見は第一次産業国でも実態は商業国である。その結果どうなるかというと、島国のほうが国際化 が早い。相互に連帯できる。経済には「共通の利益」という着地点があるからである(p114.p230-235)。

★q.島国的特徴と大陸国の特徴を列挙してみると、島国の方が未来的である。平和で豊かである。島国的生活は、お互いに気心が知れて、その点は多少窮屈だが、もう征服なんてことはしないしされない(侵さず侵されず)。和の経営、和の社会になってしまう。いっぽう大陸は、殺さなければ殺される、あとは野となれ山となれの民族浄化戦争を3千年か4千年やってきて、まだ続いている。さすがに世界も見ていられなくなり、国連をつくったり、NATOをつくったりして、みんなで悪い国は制裁しようとなっている。そのため大陸でも、もう地平線まで制圧するなどということはできない。軍事より経済になった。情報化はどんどん進むから、巨大帝国を統一する非現実的で超越的な思想はもう維持できない。契約の実行もやらなければ、国際社会ではすぐ悪い評判になる。「情報の共有化」や「価値の共有化」がどんどん進んでいる。国民は豊かさを求めている。商工業の成果が上がって大都市化が進めば、農民はどんどんそちらへ移住する。大衆消費社会が生まれるにつれ、中流化が進むにつれ民主主義の確立と人権の尊重と環境の保全も必然的に進んでいく。かくして世界が一つの島国になる。21世紀に向けて、その方向に動いている。長かった大陸国と島国の二分法の時代に、未来的な1ページが加わろうとしているのである。そして世界が一つの共同体になった時の暮らし方は、日本を学びなさいということである。その途中過程がアメリカ的連邦国家だと考えればわかりやすい。連邦国家の特徴は、全体の統一と各州の独立の調和である。アメリカの偉大さは、人種問題に苦労しながら21世紀の世界の縮図を今やっているということである。地球を全部まとめて一つで募らす、そのプレーオフの実験をアメリカがやってくれている。アメリカの中に世界各国があるわけで、それがどうやったらまとまるかというので大変苦労している。そのアメリカの苦労は、やはり21世紀の地球を救う苦労であって、大いに尊敬しなければならない。但し、もっと超先端国は日本である。日本はすでにそれを江戸時代に完了している。日本の中に大名、小名が330人もいた。その各藩は、それぞれ独立国という感じであったが、同時にみんな一緒で日本人だという感覚もあった。つまり、統一について語る必要はない。自ら統一されている。各藩は独立国だが、しかし天皇、および徳川将軍を上にいただく秩序に服していた。そして対外的には、軍事上アジアでは最強だったときに、敢えて自ら鎖国して、侵さず侵されずを身を以て実行した。21世紀の世界は、戦国時代の日本から、江戸時代の日本になろうとしているらしい。言い換えれば、世界は「エドナイゼーション」を目指している。それを「ジャパナイゼーション」という表現で普通は言っている。これは正確に言えば、江戸にあったもの及びこの50年間日本が実行しているものには、世界的普遍性があるということだろう。平和と繁栄が長く続く幸福な国の姿を世界歴史の中で探せは、それは江戸時代と現在の日本である。21世紀の世界は日本化するだろうというのは、そういう意味でもある(p244-247)。

あとがき
 読んでいて元気になる日下公人氏の著作から紹介してみました。「一問に百答」もそうですが、知識・教養を応用力、創造力のレベルにまで使いこなしている人だと思います。もうひとつ紹介すると「旧ソ連が持っていた原子爆弾を買い取って発電所で電力にかえる事業」を提案しています。私は原子力発電には反対している人間ですが、こういう柔軟な発想は好きです。21世紀を楽しい世界にしていきましょう。