20世紀を生き抜くための「心」・「技」・「体」その29

はじめに
「技」上田清司著 法律は「お役人」のメシの種(オーエス出版:1998.5.30第1刷、本体1600円+税)
「心」竹内靖雄著「日本」の終わり(日本経済新聞社刊:1998.5.6第1刷、本体1600円+税)より
「技」福岡正信の「自然農法」(春秋社刊「わら一本の革命」1983.5.30第1刷「無・」1985.10.30第1刷)より

「はじめに」

★ YTAメモその11 (1996.4.10)「技」で相続価値を越える相続税の課税処分を取り消した裁判(大阪地裁平成7年10月17日)を紹介しましたが、これを不服とする国(税務署)が控訴していた控訴審で大阪高等裁判所は第一審判決を取消し、控訴人の行った課税処分は適法とする判決を下しました(平成10年4月14日)。判決文を収録した速報税理平成10年5月11日号には納税者側の全面敗訴、という見出しがつけられています。確かに納税者の主張は認められませんでしたが国(税務署)が控訴したときの主張がそのまま認められたのではありません。実は争点となった租税特別措置法69条の4は第一審判決後の平成8年4月に廃止され(以下、「旧法69ー4」と略す)、同法の適用があった納税者のうち負担の過大なものに対する救済(減額)措置が設けられ、これに基づいて行われた控訴人(税務署)の課税処分は適法であると大阪高裁が支持したにすぎません。具体的に相続税額を並べてみます。当初税務署は旧法69-4に基づいて14億3,181万円とする更正処分を行いました。この処分に対して大阪地裁は旧法69ー4の適用を否定して相続税は5億5,698万9,300円とする判決を下しました。この判決がきっかけとなって旧法69-4を廃止し、相続税の上限を時価の70%までとする(救済)措置法が平成8年3月成立します。この法律に基づいて税務署は本件の相続税を6億7,385万2,900円とする更正処分を行い、大阪高裁はこの処分は適法であると追認したにすぎません。旧法69ー4は昭和63年12月31日から平成7年12月31日まで7年間適用されましたが、平成3年以降の相続等には救済措置を遡って講じています。5年間も遡って手直しをするということは、5年前に改めるべきことを漫然と放置していたわけで立法府は怠慢のそしりを免れません。また、旧法69ー4によって過大に税負担をした納税者を救済するため、というもっともな理由はあるものの過去に遡って税金計算のやり直しを認めるというやり方は税務行政の責任が曖昧な解決方法であると思います。取りすぎた税金を返すのではなく、国の不作為による責任を認め納税者がこうむった損害をつぐなう(国家賠償)というのが国民主権の考え方ではないでしょうか。いささか理想主義に凝りかたまった意見と思われるかもしれませんが、「今のままでは大変なことになる。早く手を打たなければ・・」などと問題解決の必要性に目を向けさせて原因解明など後回しにしようとしている国(官僚)の対応を見ていると、スジを通す考え方というのが大切であると思います。

「技」上田清司著 法律は「お役人」のメシの種(オーエス出版:1998.5.30第1刷、本体1600円+税)

★a.一本の法律には多数の官僚が関わり、成立すると必ず公益法人の類が誕生する。それは関係した官僚の天下り先として機能し、国民が納めた税金を補助金という名に変えて注ぎ込む。省庁を早期退職した官僚OBは、天下り先を渡り歩き莫大な収入を得る。つまり現在の法律は権益を生む原因になっているのである(P4-5)。

★b.平成10年2月28日現在生きている法律は1692ある。政令は1938、勅令99、閣令12、省庁による府庁省令が2740、合計6481件(法務省調べ)である(p50)。

★c.法律は一度成立してしまうと廃止・改正が難しい(成立当初の存在意義がなくなっても廃止に踏み切れないのは「はじめに」で紹介した旧法69-4をみてもあきらかである)。そこで時限立法主義という発想を提言する。例えば消費税が10年の時限立法なら10年後には必ず見直しをすることになる(そうすれば30年前の治水計画に基づく堰の建設のために苦し紛れに新たな理由づけをさがすなどという存続のための言い訳は通用しなくなる)。一方で廃法をすすめ、新法はすべて時限立法にすれば不要な官僚や特殊法人・公益法人が整理されスリムな官僚組織が実現する。

★d.税金の見直しもする必要がある。官僚OBが莫大な退職金を懐にして天下り先を渡り歩いたときにかかる所得税は20%しかかからない。いくらもらおうと、何度もらおうとそういう仕組みになっている。ほかの所得に比べ格段に負担が少ない。これは退職金は一生に一度という先入観があるから税の負担が軽減されているのであり、天下りをくりかえす官僚OBが通算で5億円の退職金をもらえば4億円が懐に残ることになる(p220-225)。

「心」竹内靖雄著「日本」の終わり(日本経済新聞社刊:1998.5.6第1刷、本体1600円+税)より

★a.サブタイトルに「日本型社会主義」との決別、とある。社会主義とは「各人はその能力に応じて働き、その必要に応じて与えられる(=分配される)というマルクスの共産主義のスローガンを実行することをいうが、これは福祉国家の「人はその能力に応じて負担し、その必要に応じて受け取る」とほとんど同じである。ということは福祉国家を実践するということは社会主義を実現することだと言い換えることができる。

★b.日本では、成長が続いた時代に成長に適合したシステムが生まれた。終身雇用制、年功序列制、系列、株式持ち合い、そして規制と保護を通じて成長の成果を官が再分配する仕組み(下記c)、低生産制部門を温存する競争制限的「共生」、談合等々。これらの日本的な「美風」を組み入れたものは「日本型資本主義」と呼ばれている。しかし、そこに組み入れられている特殊成分に注目するなら「日本型社会主義」と呼ぶべきものである。これら日本的美風は経済も企業も成長していく環境下で有効に機能するものであるが、成長を推進する原動力であるかのように考えるのは誤解にすぎない(そんな力はない。乏しきを分かち合ってひたすら我慢するしかないシステムへと様変わりしている)。

★c.福祉を配給するにはカネがいる。政府は税金や社会保険料を取れるところから取って貧しいところ、カネを必要としているところに分配する。多く稼いだ人から累進的な税率でたくさん税金を取り、稼ぎの少ない人の所得を補填することは市場の経済競争の成果を国家が結果的に平等化することであるから、まさに社会主義そのものである。

★d.日本で「社会主義」といえばソ連や中国型の社会主義しかないように思われているが「スカンディナヴィアン・ソ-シャリズム」という言葉が示すように欧米流の定義では社会福祉の充実した北欧諸国も社会主義の国である。広義の社会主義は個人主義の反対のやり方やスタイルをさす言葉であり、堺利彦は「社会主義の主張するところは、ひっきょう善良なる家庭において行なわるるがごとき共同生活を、社会全般に行ないたいというのである」と表現している。要するに物事を集団主義でやっていくのが社会主義にほかならない。家族のような集団の中では市場の取引が排除される。市場は個人と個人がカネを使って交換を行う関係である。資本主義はその個人が市場で金儲けを追求することである。市場における金儲けは古代にも中世にもあったし、洋の東西を問わず、文明社会のいたるところにあった。マルクス主義者がいうように産業革命以降に発達したものではない。

★e.ほとんどの人間は社会主義を支持し、資本主義に反感や不安を抱く。資本主義を支持するのは自力でゲームに参加して比較的成功を収めている人間、あるいは成功を収める自信のある人間に限られる。それ以外の「持たざる人」は私有を廃止してすべてを共有にすることを望む。それによって自分も「持てる人」の仲間入りができると思うからである。あるいは国が「持てる人」からたくさん取り上げて自分たちに再分配してくれることを期待する。いずれも虫のいい考えであり、「卑しさ」むき出しの社会主義には後ろめたさを感じてしまう。しかし、たとえば福祉国家のように合法的かつ洗練されたスタイルで社会主義の実現をはかった場合、人は他人の金が自分に分配されることに恥も後ろめたさも感じない。むしろ分配に あずかることは当然の「権利」だと思うようになる。

★f.福祉国家というものは、若い人口が多くて成長率の高い社会でこそうまくいくが、老人、病人、失業者などの多い社会、つまり福祉の大量配給が必要になる社会においては成り立たないものである。「国家は万人に対して平等にミニマム(最低限度)な生活保障を提供しなければならない」という思想は妄想、空想のたぐいであり、福祉国家がミニマムな生活を配給できるかのような幻想をいだかせることは詐欺に等しい。

★g.日本型社会主義がこれから先、うまく機能すると思えないのであれば本気で資本主義をやってみてはどうか。また資本主義は個人や企業が市場のプレーヤーであり、国ではない。これからは「日本はどうなるか」と「日本」を主語にして考える癖はそろそろ捨てた法がよい。問題は日本ではなくて個人や企業であり「自分はどうするか」である。本の腰巻きに「目からウロコの日本診断」というコマーシャルコピーが載っています。混迷している日本を軽妙かつズバリ分析しています。今の日本を成人病まみれの病人に例えてみたり(第1章)、別紙のような楽しく読める会社の法則(第9章)を作ってみたりとナルホド、と感心させられる本でした。一度本屋さんで手に取ってご覧いただければ幸いです(今回のメモは、「はじめに」「1章老化する日本」「4章福祉国家の崩壊」「10章脱社会主義のすすめ・資本主義のすすめ」から紹介しました)。

「技」福岡正信著「自然農法」

★a.自然農法の4大原則は「不耕起」「無肥料」「無農薬」「無除草」である。

★b.不耕起:機械などで耕すということをしない。植物の根や微生物やモグラやミミズなど地中の動物の働きで生物的、科学的に耕される。

★c.無肥料:自然を破壊したり略奪農法をやると土地がやせ、肥料を必要とする土壌になる。自然の土壌は動植物の生活循環が活発になればなるほど肥沃化していく。米、麦や果物の実だけをとり、わらや籾がら作物の茎葉全部を元の土に戻すようにすれば、後はクローバーやウマゴヤシなどの緑肥を作ればほとんど肥料はいらない。

★d.無農薬:自然は常に完全なバランスをとっており、人間が農薬を使わなければならないような病気や害虫は発生しないものである。耕作法や施肥の不自然から病体の作物を作ったときのみ自然が平衡を回復するための病虫害が発生する。ウンカが大発生すれば必ずクモの子が湧くほど発生する。害虫がいても天敵がいればバランスはとれる。

★e.無除草:肥料をやって作物を育てているとその周囲の雑草は肥料を横取りしているから除きたくなる。しかし、作物は肥料によらなくても成長するという自然農法の立場からみると作物の周囲の雑草も邪魔には見えない。原野では樹木があってその下に雑草が茂っている。雑草の繁茂によって樹木の成長が不可能になるなどということはなく共存共生の姿がみられる。雑草の根が深く地中に入ることによって土が膨軟になり、その枯死によって腐植が増し、微生物が繁殖する。 雨水は地中に浸透し、空気は深く送りこまれてミミズが棲むようになりモグラもまた出てくる。雑草は土が生きた有機的な活動体になるのに絶対必要なものである。雑草を人間の手で除くのではなく、雑草は雑草によって除くほうが賢明である。具体的 には農作物にも都合のよい緑肥を繁殖せしめることによって多くの雑草を駆逐せしめる。

★f.自然農法は次のように行われる。秋、稲刈り前の田んぼに稲の頭の上からクロ-バ-と麦の種をばらまく。稲刈りは数センチに伸びた麦を踏みながら行う。3日ほど地干しして脱穀したら、そのときにできた稲わらを長いまま振りまく。次に、正月前までに稲の種籾を土団子の中にいれてわらの上にばらまく(そうしないと雀やネズミ、ケラ、ナメクジに芽を喰われてしまう)。5月中旬、麦を刈る頃になると足元にクロ-バ-が茂り、土団子の稲籾が数センチの芽を出している。麦刈りをして地干し脱穀がすんだら、できた麦わらを長いまま田圃一面に振りまく。田の畦(あぜ)ぬりをして4-5日水をためると、クロ-バ-が衰弱して稲苗が土に出る。あとは6-7月の間無潅水で放任し、8月になってから10日か1週間ごとに排水溝に1回走り水をするだけでよい。以上が、米麦作のクロ-バ-草生、米麦混播、連続不耕起直播の概要である。

★g.わら振りは無茶苦茶に振りまく。敷きわらふうにきれいに並べたら芽がきちんと出てこない。稲の発芽には麦わらが良く、麦には稲わらが適している。稲の発芽に稲わらを使ってみると芽がきちんと出ない。また、麦わらが土の表面を一応は覆ってしまうから80%ぐらいの遮蔽ができる。すると雑草が発芽できず雑草対策になる。

★h.福岡氏が理想とする稲は貯蔵澱粉の効率が良い稲である。普通の稲丈は1メ-トルぐらいあるが、福岡氏が作る稲は5、60センチぐらいにしかならない。稲を育てよう、ふとらせよう、そうすれば大きな穂が稔るだろうと考えるが、大きなわらは自家消費の澱粉量が多いために差し引き勘定して残る貯蔵澱粉の割合が少ない。普通のわらであれば1000キログラムのわらに対して米は500-600キログラムしかできないが、福岡氏の小さい稲ではわらを1000キログラム作ったら1000キログラムの米ができる。うまくいけば1200キログラムぐらいの米がとれる。それにはできるだけ圧縮して小さな稲におさえる。一番手っとり早い方法は水を使わないで稲の生育をおさえる。また、正月前に籾をまいて気長に長い年月をかけ、肥料をやらず、水をかけず、ぼつぼつ成長するのを待つという方法でやっている。

★i.食糧を生産するというけれども、百姓が生命のある食物を生産するのではない。無から有を生む力を持つのは自然だけである。百姓は自然の営みを手伝うだけである。

 YTAメモその10「心」の結論として仕事がなくなったらみんなで農業をやったらどうかと提案しました。YTAメモ27「体」で紹介した赤峰勝人氏も今回紹介した福岡正信氏も自然農法の実践家です。お二人の本を読んでいると私がこれまで勉強してきた自然の摂理ということを農業の場で実践されているのがよくわかります。また、お二人とも自分の職業を百姓といいます。百姓は差別用語だから農家と呼んでほしい、という主張も一部にはあるそうです。農業をやっていることが恥ずかしい、まして百姓などと呼ばれたくない、ということのようです。逆に、税理士という職業はステ-タスがあるように思われる方が多いようですが、将来税理士という職業が必要とされない時代がくるかもしれません。(その時は税理士以外にも必要とされない職業がでてくるでしょう)。もし税理士を失業するようなことになったら自然と共生しながら百姓を楽しんでみたいと思います。