20世紀を生き抜くための「心」・「技」・「体」その9

「技」松藤民輔「脱浪費社会」第2章より
(1995.11.9初版:ダイヤモンド社)
「心」谷沢永一「こんな日本に誰がした」(1995.6.16初版:クレスト社)
「体」浅井隆ほか「サバイバル読本“食育”編」(1994.11.28初版:総合法令)より

「技」松藤民輔「脱浪費社会」(1995.11.9初版:ダイヤモンド社)第2章“大量消費社会は人間にとって幸福な社会か”より

★a.消費を中心にする経済メカニズムは企業の競争の論理のたまものである。企業が拡張して利益を追求していくためには、売れること、つまり消費させることは必要不可欠の条件になる。消費させるためにアノ手コノ手を尽くし、目的のためには手段を選ばない、法に触れなければいい、バレなければいい。会社の利益のために自分の人間性を踏みにじるような仕事もしなければならない。広告業界の売上高は5兆円。このお金はすべて売らんかな、買わせんかなのためにつぎこまれている。本当にいいものってそんなにたくさんあるのでしょうか。企業が利益を最大限に追求し効率的な組織であろうとすればするほど、たいして必要でもなくどれほど役に立つか疑問のある製品まで売ろうとする。売らなければ企業は生きていけなくなり、社員もいられなくなるからです。

★b.例えばコカ・コーラ。健康面からいえば緑茶の方が優れている。私は企業が売るためにあらゆる手段を使った結果「私たちは飲まされている」と考える。コカ・コ-ラはひとつの文化をつくりあげた。コ-ラを飲んでいないと文明人ではないようなイメ-ジ。ノドが渇いたらコカ・コ-ラ、食事するときにはコ-ラを一緒に飲むのが当たり前というイメ-ジをつくりあげてしまった。企業が商品で一つの文化をつくったとき、企業はその商品の消費を支えるために次々と手を打つ。商品の良し悪しはいつの間にか脇へ追いやられ、企業が生き残るための論理、つくったから売る。無理にでも売りつける、そのためには何でもするという考えが、全面にでるようになる。

★ c.ウォルト・ディズニ-は自分の思い描いた世界を多くの人に伝えたいと考え、アニメをつくり、ディズニ-ランドの建設に着手しました。ところがウォルト・ディズニ-の死後、生き残ったディズニ-ランドは企業として成長を始め、彼の夢を伝えていくというよりは、いかにディズニ-の作品を使って金もうけをするかに重点がおくようになった。キャラクタ-商品を売り、海外にもディズニ-ランドを建設した。東京ディズニ-ランドは、採算にのると踏んだからできた。確かにディズニ-ランドは楽しい。私はディズニ-ランドを不気味な存在と考える。すべてが計算され、設定されている。食べ物、飲物を外部から持ち込んではいけません。飲食は場内の施設を利用して下さい。おみやげは全て場内で販売しています。限られたエリアの中にお客さんの要望しそうな条件を全てちりばめ、先手を打ってレ-ルがしかれている。入場者が過ごす時間、行動、幸福感までがあらゆる側面から計算し尽くされ、すべて金を払うことにつながっている。ちなみにディズニ-の現会長は年収が数百億円あるという。これだけ見事に金をはきださせるメカニズムをつくればそうなるかもしれない。

 a今の時代、消費が美徳とはいえないようにおもいます。ディズニ-ランドを不気味な存在とは思えないし、一時の夢のためにお金を使うことが全てよくないこと、とは思いませんが「消費」が「浪費」になっているとしたら、戒めたいと思います。メモの6「心」dでカンボジアに行ったら日本にあってカンボジアにないものがたくさんあった。けれどしばらく暮らしてみたら、そんな物はなくてもすませられる物ばっかりだった。という中田厚仁氏の言葉を紹介しましたが、人間の幸福は物やサ-ビスを大量に消費することではないという気がします。

「心」谷沢永一「こんな日本に誰がした」(1995.6.16初版:クレスト社)p13-17

★ a.日本の政治を牛耳っているエリート官僚たちは国家公務員採用・種試験に合格した人たちである。この試験の前身は高等文官試験であり、そのルーツは随の文帝の時にはじまった科挙の制度である。テキストは四書五経などの儒教の教典で、隅から隅まで覚えた者、すこしも間違えずに至らざるところなく暗記した者が科挙の試験に合格する

★b.儒教に精通した者だけが政治を行う仕組みで、武力による勝負を排し、文事による競争に限定するから理想的な制度のようにみえる。・現代の日本でも代議士が変わっても優秀な官僚(公務員)は変わらないから任せておけばよいと考えられていた。

★c.しかし、知識と道徳とは別の次元であり、儒教の教典を丸暗記することと儒教の倫理を守ろうと努めることとは別である。人格を測る尺度は知識ではない。物覚えがよいことと道徳的良心が強いこととは何の関係もない。科挙は知識を測る制度にすぎない。しかるに、その実態をひた隠しにして、科挙は人格や倫理観念を測る制度であると見なしたところに根本的な嘘がある。人格を測る基準はどこでもまだ発明されていない。

★d.科挙の受験者はすべて栄耀栄華に達したい出世欲の塊であった。ひとなみはずれた欲の深い者でなければ合格するための甚だしい苦労に耐えられない。高潔な人格者になりたいと願っている者などあるものかシナ人の人生目標は、いつの世でも名誉と資産をできるだけたくさん掴むことであった。身を削る苦労を重ね、莫大な学費を費やして、ようやく合格したのである以上、モトを取らねば意味がないではないか。科挙の合格者はよほどの変わり者を除いて、ことごとく賄賂を絞り上げる鬼となった。

★e.シナでは高級官吏を清官と濁官の二種に分ける。後者は賄賂を取ること甚だしい強欲の輩のことであり前者は賄賂の取り方に限度を心得ている、という意味である。清官が知事の任期を一期務めたその間に蓄えた収賄資産によって、子孫が三代の間豊かに暮らして行ける、という社会常識を「清官三代」と呼ぶ。

★f.科挙の合格者のはてしなき強欲のもとに民衆は呻吟し、経済は発展せず文明は向上せず、民力は疲弊した。その結果、シナはのちに西欧帝国主義の餌食となりはてた。

a景気が低迷し、94事業年度は赤字法人が63.8%。税収は65.3%しかないのに歳出の方は当初予算の92.9%が使われたという。足りない分は大量の赤字国債発行という次世代へ借金のツケをまわしているだけである。全国市民オブズマン会議の活躍で官官接待など税金の使われ方に関心が寄せられるようになったが、民間企業のリストラによる見直しからみればまだまだ甘いのではないだろうか。

「体」浅井隆ほか「サバイバル読本“食育”編」(1994.11.28初版:総合法令)より

★ 一倉定氏の「正食の原理」をコラムで紹介している(別紙)。専売公社の塩化ナトリウムでアサリの砂だしをしても口を開かないが自然塩をいれると開く、ご参考に。